コーヒーと麻婆豆腐

25歳の僕は会社を辞めてコーヒーと麻婆豆腐を貪る旅に出た

【あなたはどう生きていますか】旅をして感じる「人の在り方」への考え

今回は旅をする中で、筆者自身が感じる
「人の在り方」に関してまとめていこうと思う。

こういうことは感じた時に書かないとすぐに忘れてしまうから、思い切り書き残していく。

 

人はどう在るべきか

f:id:coffee_and_ma-bo:20190425131141j:plain

Photo by Ali Yahya on Unsplash

日本国民なら誰しも一度は考えたこのあるこの問い。
そもそもこの問いが出るくらい満たされている我々。

皆さんはどうお考えだろうか。

まず結論から先に出すと
旅を経て僕が感じる「在り方」の理想は
「文化」への深い関わりと「使命」をもつことだと思っている。

文化とはここでは食事や芸術、音楽や自然などを指す。
使命には条件があって、なるべく普遍性が在るものが良い。
(普遍性の理由は直感なので説明ができない)

文化への深い関わりというのは
単に知識を増やしひけらかすのではない。

そのモノと自分とを突き合わせ、相互に理解しようとすることを
関わり方と考え、集中力とでもいうのかわからないが
それを深さと置いている。

例えば、この間福岡での出来事について話をしよう。

4月序盤、長袖一枚だと少し肌寒く感じるそんな日に僕は独りで少し高級な焼き鳥屋さんに足を運んだ。

いつもは麻婆豆腐を食べているのだが
その日に限ってはなんとなくそういう店にいきたくなった。

正直、単独でいうのは初めての経験だったので
少し緊張気味で店内に入る僕。

店内はL字のカウンター席が10程とテーブル席が2つあるこじんまりとしたものでカウンターの角に近い席に案内された。

コースがメインのメニューになっていたので
串のコースと生ビールを注文する。

時間帯も遅かったので偶然その時は客は僕ひとり。
対して店員さんは師匠1、弟子2の図だった。

僕はその日食事と本気で向き合う覚悟でお店を訪れていた。
要は集中していたのだ。

本気や集中は伝播する。

空調や換気扇の回る音、ジリジリと焼き鳥が焼かれる音。
水場に立つ弟子の後ろ姿。

お皿やコップを洗う音、シンクを叩く水の音など
様々な音が心地よく耳に、動きが目に入ってくる。

その空間に関わる全てのモノ(ヒトも含む)が
あるべき姿でいようとしていた。

一種の創作。

目の前でひとつひとつ丁寧に焼き上げる職人さんと
何かおしゃべりしたわけではない。

でも確かに僕は職人さんと対話をしていた。

芸術作品をそこにいる皆で作り上げようとしていた気がする。

あの時の食事はいつもより感覚のセンサーが優れていたのか
とにかくいつもより味覚以外のものを感じられた。

細胞ひとつひとつで食材を感じていたように思う。

こういう経験の量がおそらく人の人生を豊かにするのだと
その時、僕の直感がいっていた。

とまぁ食事ひとつとっても
向き合い方でこんなにも感じ方が普段と異なるのだと
体験を通して知ってしまったのである。

もちろん自己満足で気のせいだと言われたらそうかもしれないが
極論今見ている世界は人間の見え方の限界値な訳で
本当の世界なんてものはわからない。

自分が捉える世界がその人にしか見れない本物なのだ。
だからそう感じたならそう感じたで良いと思っている。

人の人生は短く儚いもの。
その限られた時間の中で世の中を大きく変えることは難しい。

そもそも世の中を変えるだとかインパクトを与えたとは
どの基準でものをみているのか。

大きな歴史の単位でいったら
もしかするとどれだって大したことはないのかもしれない。

結局は捉え方の問題なのだ。

上記のように考えた時、
我々のもつ資本主義社会からの価値基準から解放される。

そしてそれを基軸に生き方を、在り方を考えると
出る結論がまた変わっていく。

筆者は旅を経て様々なモノと出会う中で
上記のように感じ、改めて自分自身と向き合うことになった。

どう在ることができるのか

f:id:coffee_and_ma-bo:20190425130909j:plain

Photo by Clever Visuals on Unsplash

今までそれが価値だと思っていた基準から解放された時、
人は本来のより動物らしい生き方を探求することができる。

自然を中心にする生活。

向き合う時間を充分に確保し、それを深めていく作業に勤しむ。
世界と溶け合うような感覚になる瞬間をたくさん経験する。

万物の声を聞き、受け入れられ、そこに身を委ねる。
自分以外からの眼差しをものともせず、生きていく。

シンプルに「家族を愛す」でもいい。

そんな在り方でも良いのだ。

でも、それがなかなかできないのが現実としてある。
それを今まさに筆者は悩みとして抱えている。

筆者の想い

f:id:coffee_and_ma-bo:20190425131232j:plain

Photo by Green Chameleon on Unsplash

僕は評価されることに慣れていた。

学校生活や友達関係ももちろんだが、
幼い頃からクラブチームでサッカーをやっていて
そこでは特に他者からの評価が大切だった。

いくら自分で満足するプレーをしていても
監督の目指している形と合致しなければ試合には出られない。

誰かの評価があってこそ自分を認識できる。
そんなことが当たり前になっていた。

だから会社員になってから売上で人が評価されることに
何も違和感はなかった。

むしろプロセスは結果があってこそだと感じていたくらいだ。

だからこそ、今この瞬間がとても苦しい。

在り方の可能性が広がり、
そんな生き方もできるんだと新しいものを知る。

その一方で新しい生き方を受け入れられない
許さない自分もそこには存在している。

他者はそれほど周りを意識してはいない。
ましてや自分に興味をもつ人なんてごくわずかだ。

だけど視線を感じてしまう。

限りなく透明に近いブルーという村上龍さんの作品に
大きな鳥が登場する。

本を読み進める中で僕の中にもその鳥がいるように思えた。

勝手に作った鳥なのだがそいつの眼差しがいつも怖くて
その瞳に飲み込まれてしまいそうになる。

要するにまだ、許せないのだ。

これからについて

f:id:coffee_and_ma-bo:20190425131339j:plain

Photo by AbsolutVision on Unsplash

新しい生き方を受け入れたい自分とそれを許さない自分。

ふたりの自分の綱引き状態で
考えすぎると頭がパンクしそうになるし動けなくなる。

でも、時間は有限で動けない時間もいつもと同じように流れている。

だからこそたどり着いたひとつの答えは
目の前のモノに一生懸命向き合いそれを積むことだった。

刻一刻と時間は流れていく。

「今」がものすごいスピードで過去を創る。
と同時に、今は未来も形成している。

だとしたら、今をないがしろにした先に
自分の求める未来はないのではと感じた。

旅を経て、人の在り方を改めて考えた。

自分以外のモノへの向き合い方そのものが
自分と向き合うことだと学んだ。

様々な文化にできる限り触れ、真剣に向き合いながら
いつの間にか使命と呼べるようなものに出会えたら
素晴らしい人生だったと言えるのではないか。

その出会いはいつ訪れるかわからないが
来るときにそれを逃さぬように自己を研鑽しよう。

僕はまだ生きている。

終わり

@韓国